2006年05月
2006年05月09日
2006年05月08日
2006年05月05日
書論:書を変える。
書が世間から見放されれば見放されるだけ好きになる。それは私の単なる性格に過ぎないのかも知れない。書の存在理由なんて考える必要はない。人に必要とされなくても、ものの価値はゆるがない。需要と供給は経済の話、あんまりあっちこっちに当てはめないで欲しいと思います。遠い昔に土の中に埋もれた石碑があった。1000年後に偶然見つけられていま古典になっている。人目に触れないからと言って、はたして無価値なのか。価値あるものは、それだけで価値があるのです。
影も形もないものからのメッセージを感じます。出来ること全てを動員しろ。今までの君でなくなっても構わないから此処で踏ん張ってみろ。後は野となれ山となれ。
広く人に知ってもらうだけが能じゃない。暗い闇の中で細々と成される価値もある。
本当は此処で、読んでくださっている方々に書の魅力についてわかりやすく書こうと思っていました。そして出来るなら、書のマニュアルに縛られている方々を解放しようと思っていました。でも、いくら考えても、うまく書けない。
新しい世界を切り開かなければ身動きがとれない。書の世界は心の中までマニュアルに縛られている。書いてみて分かりました。深刻です。
さて、どうしよう。一度思いっきりマニュアル通りに書いてみよう。まず、縛っている相手を知ることから始めよう。いい所と悪い所をじっくり見させてもらう。
今一つだけ気が付いた。マニュアルは選ぶものだと言うこと。盲目的について行くと料理の材料にされる。首を切られて、都合のいいように料理される。
2006年05月04日
書論:人間が作ったもの「古典」

書の基本は自由です。
自分は何を求めているかと言えば結局いい作品が書きたいのです。
書きたいと思ったもの、それがいい書なのです。
思った以上のものが出来たとき、うまくいかなかったとき、両方とも傑作なのです。
興味のないこと、書きたくないものを決まった通り作った作品は駄作になる。
下手に書きたいときだってある。 いい古典を観てみれば分かる。
作者は思った通り書けているのか疑問の所と、これは会心のできに違いないと思うところと両方ある。
そして、積極的な表現意欲がある。
次に、好きな古典がもしあったら、直に話をした方がいいと言うこと。
古典は全く怖くありません。
人間が、ありのままに、心細くなったり、大海原を眺めていたりしている、現実の姿がそこにある。
そしていい古典ほど丸腰なのです。唯一人の人間がいるだけなのです。
臨書の時、どんなに厳しい要求があっても、無理なことは一言も言わない。
なぜなら、やりたいと思ってる範囲で十分だから、厳しくしたくなければ、そうしなくていい。
強いて古典の臨書に於いて基本を述べるならば、「やりたいことだけをするべし。」と言うことだと思います。
臨書は出来なくて当たり前。目に見える線がどんな風に書かれているのかなんて、書いた本人だっておそらく覚えていないだろう。
まして形がない空間での筆の動きなんて、個人個人でそれぞれに想像するしかない。作者の精神に触れるしかない。そう書いた理由と言うべきものに。
しかし、自分は何が書きたいのか分からない時がある。古典を観ても何も感じないことがある。
書きたいことはどうやって見つければいいのか。
元々自分というのは受信機でしかない。
発信元は何なのか。やりたいことはどこからやって来るのか。
いいものには相反する2つがいつも同時にある。広さと狭さ・速さと遅さ・明るさと暗さ。陰陽があるのです。 全てを方向付けている源は此処にあるのです。
ここから見れば今自分の置かれている場所が分かる。やりたいことが見える。
まずは自分のイメージを作る前に、陰陽をイメージすればいいと思います。自分が発信元ではないのがよく分かります。
古典が何故巨大な存在なのか、それは人間を通って作られたものがいかに素晴らしいかを示しています。
人間が作ったものが、人間を幸せにするなんて、人間、見所があります。