2005年12月24日
書の楽しさ。
今、誰でも書道家を名乗ることができる。だから価値があいまいになり、書は安物になってしまった。松茸は高いからみんなが欲しがる。しかし椎茸のように安くなったら、それほど欲しいという願望が無くなる。手に入っても喜びが薄くなる。優れた作品の評価があいまいになり、量産レベルの作品と価格が変わらなければ、作る方も気を抜く。
心に響く作品を安物扱いにすること。作家に緊張感がなくなり、いい物が作れなくなること。この二つで書は衰弱していった。
今私は、現状を書いた。現実が善というなら、戦争は永遠に終わらない。人にはこうあって欲しいという希望がある。
書に携わって、古典等に触れていると、現状を憂えないわけにはいかない。
書の作家は、もっと、希少価値のある、質の高い物を書かなければならない。なかなか手に入らないが、欲しくてたまらなくなるような。どうすればいい。こっちが、いくらいい物を書いても、いらないなら、価値は高まらない。こっちにも書いていける生活力が無くなってしまう。今の時代、しょうがない所がある。生活苦の中で、いい物を書き続け、作品が後の世に認められるというのはよくある話だ。それだって、パトロンがいての話だ。今の時代、貧乏な芸術家が暮らしていけるような家も、パトロンになれる個人もあてには出来ない。
私は訴える。いい物を欲しがってください。他人との比較ではなく、本当にいい物を。
作家は自分の出世だけを考えているのではない。他人とも共有できるいい物が作りたいのです。人の世は競争や弱肉強食だけでは終わらない、と言うことを確かなものとして確認しようではありませんか。
この時代に生きている人間として、大事な物をとぎれさせない義務があると思います。
そうした基礎が、しっかりした上で、初めて書を楽しむことが出来るのだと思います。
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この記事へのコメント
青森の書人です。私も50年になりますが、中央のやり方から離れて迷走して25年経ちます。
迷走しても20年たてばそれなりの自前の書論があるものです。
お見知りおきを・・・m(_ _)m
あらゆる現実も理想があって初めて我慢が出来るのだと思います。
今は、書に限らず何でもレベルが下がって来ています。
それは喜びの無い苦労だけになってしまったからなのではないでしょうか。