2006年01月20日

書道家の道(修練と古人との対話) -書道家葛空の随筆-

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   書には学校でするような勉強は必要ない。ある基準に達していれば合格などの成績は無意味である。ある期間内に努力すれば必ず手に出来る要素は書の何処を探しても見つからない。わき上がる感動との出会いで発見すものがあるが、いつ訪れるか誰が保証できよう。部分部分で上達するする順位も人によって違う。人の目にとまりやすい部分を先に手にした人が、渋くて目立たない部分を先に手にした人よりも評価されて、後者が劣っていると思いこみ、私は書が不得意だ、なんて言うことになったら、大変である。書にはむしろこの渋い部分が大切だったりするのである。本当に大切なのである。
 書には、順位ではなくコミュニケーションが必要なのである。形だけの偽物なんていらない、一生の間には得られないかも知れない本物を求めなくてはならない。自分の時間で、落ち着いて、焦らず、あきらめず。
 その為には今何をするべきか。日々の鍛錬が教えてくれる。臨書である。絵で言うところのデッサンである。デッサンが単に形の写し取りではなく、感動の写し取りである如く、臨書は、自分のあこがれに達するために用意された手段でなければならない。感動とのコミュニケーションとでも言うべきか。
 他人の優れた臨書を観ると、何でもなく簡単にぽっかりと自分のやりたかった事が出ている事がある。狭く閉じこめられていたものが、急にすらっと展開して、心地よさに体の力が抜けてゆく。これも大事な出会いなのである。自分も又、他人に示さなければならないのは言うまでもない。

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