2006年05月04日

書論:人間が作ったもの「古典」

上野動物園のゴリラと人間







 書の基本は自由です。
 自分は何を求めているかと言えば結局いい作品が書きたいのです。
 書きたいと思ったもの、それがいい書なのです。
 思った以上のものが出来たとき、うまくいかなかったとき、両方とも傑作なのです。
 興味のないこと、書きたくないものを決まった通り作った作品は駄作になる。
 下手に書きたいときだってある。 いい古典を観てみれば分かる。
 作者は思った通り書けているのか疑問の所と、これは会心のできに違いないと思うところと両方ある。
 そして、積極的な表現意欲がある。

 次に、好きな古典がもしあったら、直に話をした方がいいと言うこと。
 古典は全く怖くありません。
 人間が、ありのままに、心細くなったり、大海原を眺めていたりしている、現実の姿がそこにある。
 そしていい古典ほど丸腰なのです。唯一人の人間がいるだけなのです。
 臨書の時、どんなに厳しい要求があっても、無理なことは一言も言わない。
 なぜなら、やりたいと思ってる範囲で十分だから、厳しくしたくなければ、そうしなくていい。
 強いて古典の臨書に於いて基本を述べるならば、「やりたいことだけをするべし。」と言うことだと思います。

 臨書は出来なくて当たり前。目に見える線がどんな風に書かれているのかなんて、書いた本人だっておそらく覚えていないだろう。
 まして形がない空間での筆の動きなんて、個人個人でそれぞれに想像するしかない。作者の精神に触れるしかない。そう書いた理由と言うべきものに。
 しかし、自分は何が書きたいのか分からない時がある。古典を観ても何も感じないことがある。

 書きたいことはどうやって見つければいいのか。
 元々自分というのは受信機でしかない。
 発信元は何なのか。やりたいことはどこからやって来るのか。
 いいものには相反する2つがいつも同時にある。広さと狭さ・速さと遅さ・明るさと暗さ。陰陽があるのです。 全てを方向付けている源は此処にあるのです。
 ここから見れば今自分の置かれている場所が分かる。やりたいことが見える。
 まずは自分のイメージを作る前に、陰陽をイメージすればいいと思います。自分が発信元ではないのがよく分かります。
 古典が何故巨大な存在なのか、それは人間を通って作られたものがいかに素晴らしいかを示しています。
 人間が作ったものが、人間を幸せにするなんて、人間、見所があります。

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この記事へのコメント

1. Posted by h.n-dc   2006年05月04日 03:07
人間の作るものは無限大の力がありますからね。僕もここに来て心落ち着かせて帰るのも凄いことです。書に対して、何の興味もなかった僕が、ここに来ていること自体、びっくりすることですから。
2. Posted by 葛空   2006年05月05日 00:02
こんばんは。
人間、やり方を探せば
どこかにきっと道は開けると
思っています。
書を身近に感じて頂けたら幸いです。
有り難う御座いました。

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